それでも雨が降るときは

ホリスティックに発達障害とつきあう

定型発達者の共感力って?

診断を受けたときに診断医がポロリと言ったことで

印象に残った言葉があります。

「定型発達者は共感力があるっていうけど、

結局は他人も自分と同じように感じていると

想定しているだけにすぎないんだけどね」

 

なるほど、と思いました。

確かに、定型発達者には非定型発達者の気持ちはわかりません。

定型発達者が共感力があるというのは、

たまたまマジョリティであるために

相手が自分と同じように考え、感じているという想定が当たることが多いだけの話。

そう考えると面白いです。

 

本当に定型発達者に共感力があるのであれば、

いじめなどは存在しないか、すべて「故意」(嫌がるとわかっているからわざとやる)

ということになるのではないでしょうか。

共感力には「認知的共感力(相手の考えや気持ちに知的に気づく能力:

いわゆる「心の理論」)」と「情動的共感力(無意識的に相手の感情に反応して

同じような感情が沸き上がる能力)」があるそうですが、

いじめというものが広く存在するのなら、

定型発達者に情動的共感力があると言えるのかどうか。

 

こちらが落ち込んでいて「そっとしておいてほしい」と思っていても、

定型発達者は逆に、元気づけなくては、と思ってやたらと話しかけてきたり、

冗談を言って笑わせようとしたりしますよね。

こちらとしては、定型発達者はそういうことをするのだと経験からわかっているので、

内心は「放っておいてほしんだけど」と思いながら、

好意から(もしくは暗い空気が気まずいから)やっているのだ

ということはわかります。

果たしてどちらが共感力があるのでしょうか。

 

非定型発達者には非定型発達者の気持ちがわかります。

発達障害のエピソードに「あるある」と感じるのは

共感力ではないのでしょうか。

 

でも残念ながら、非定型発達者は社会の中では少数派です。

共感できる相手はごく少数です。

大多数の人の気持ちや考え方は理解できません。

そのために共感力がないと思われています。

 

日本に住む外国人のようなものだと考えるとわかりやすいかもしれません。

外国人も出身が違えば、わかり合うのは難しい。

非定型発達者同士でも必ずしも共感し合えるわけではありません。

ただ、この社会でやっていくのって結構大変だよね、という点では

共感し合えるかもしれません。

 

でもたとえば、日本人では日本人同士は会えばお互いペコペコお辞儀をして

目が合えばニッコリ微笑むのがよしとされているけれど、

海外へ行けば、この人は何でやたらと頭を下げるのかと思われるし、

目が合っただけで意味もなく微笑めば、気があるのだと誤解されることもあります。

 

定型発達者と非定型発達者の違いも単に文化の違いであって

実は良し悪しではないのかもしれないという気がしなくもありません。

ですが、定型発達者の国に住む外国人としては、

その文化や習慣に合わせなければなりません。

それがその国ではよしとされているのだから。

 

長く住んで日本人と行動を共にしていれば、

外国人であっても、こういうときに日本人はこう考えるのだ、こう感じるのだ、

ということがわかってきます。

 

それと同じく、非定型発達者であっても、

長年生きて定型発達者と行動を共にしていれば、

だいたいのところはわかってきます。

だから、実際には空気が読めるようになる場合が多いのではないでしょうか。

ただし、それに共感できるかどうかは別の話ですが。

そういえば、「空気を読む」と「共感力がある」というのは

同義で語られていることが多いような。

果たして教科書通り、非定型発達者は空気が読めず、共感力がないのか。

 

その国に溶け込むためには、その国の大多数に合わせるのは致し方ないとしても、

失礼のないようにさえすれば、後は各自の自由です。

自分の国で暮らしていたときのように家で過ごしたって、

心の中でどう感じていたって、文句を言われる筋合いはありません。

 

だから非定型発達者も、失礼のないようにさえすれば

(それすら難しいこともあるかもしれませんが)、

ひたすら溶け込もうとしなくてもいいんじゃないかと思うのです。

それってなんだか、日本にいる外国人が必死になって日本人になろうとしている

のと同じような気がしなくもありません。

 

理解してもらうこと、共感し合えることをあきらめてしまえば、

意外と楽に生きられます。

寂しいように聞こえるかもしれませんが、そんな相手に出会えたのだとしたら

(めったにいませんが)、それこそ貴重で、文字通り「有難い」と思えるのです。