それでも雨が降るときは

ホリスティックに発達障害とつきあう

定型発達の対語は発達障害?

前回のブログは、全然意図していなかったのだけれど、

気がつけば「発達障害」という言葉をほとんど使っていなくて、

定型発達者に対する言葉として「非定型発達者」を使っていました。

なんとなく、文脈としてそっちの方がふさわしいような気がしたからです。

 

でも後から思ったのは、「非定型発達」という言葉の方が

実状を適切に表しているんじゃないかということです。

 

発達障害」という概念そのものが輸入されたものなので、

「developmental disorder」をそのまま訳したのでこうなったというのはわかります。

英語では「developmental disorder」ではない人を指す言葉は

neurotypical」なのだそうですが、

最近では「neurodiversity(神経学的多様性、脳多様性)」

という言葉も聞くようになりました。

 

発達障害」には「治る」「治らない」論争もあるらしく、

何をもって「治る」としているのかも各々違うようです。

 

ただ、自分自身のことを振り返ると、子どもの頃と比べて、

明らかに状態は改善しています。

今では特に支援も必要としてないし、傍から発達障害だとみられることもないので、

発達障害に苦しんでいる人たちがネット上にあふれかえっているのを見ると、

薬物療法も必要なく、とりあえず自立して暮らしている自分は

「自分は発達障害と名乗っていいんだろか?」と考えることもあります。

 

それでも、じゃあ、診断がつくほどだったのが症状が軽くなって

グレーゾーンに近くなったのかといえば、

いわゆるグレーゾーンの人たちと接してみると、

私は彼らほど気が利かないし、それほど人からどう思われるかを気にしないし、

孤立していても結構平気なので、

それほどわかりあえるわけでもないということに気づきました。

定型発達者についてはなおさらです。

 

何でしょうね。外人として海外から来て長い年月が経って

日本にかなり馴染んだし、日本人のこともよくわかるけれど、

でもどこか、根本的に自分は彼らとは違うのだ、という感覚です。

別に、違うのだ、といっても侮蔑してるわけでもなんでもなくて、

「通じ合える」感覚が薄いのです。

これはどうしようもない。

「心を通い合わせなければ」とか考えだすとドツボにはまるので、

これはこのまま淡々と心の中で事実を受け止めればいいだけなのでしょう。

 

だから、「自分は発達障害が治りました」ということにも違和感があるんです。

でも、「非定型発達です」というのであれば、しっくりくる。

「非定型発達」が意味するところは、「発達の仕方が定型(典型的)ではない」

ということ。だから、発達しないわけではなく、ただその発達の仕方が

いわゆる典型的な発達モデルには当てはまらないというだけのことです。

 

よく、発達障害をもつ子どもの親御さんが、

「『お宅のお子さんは発達障害の可能性があります』と言われてひと晩じゅう

泣きました」とテレビなどで言っていることがありますが、

あれを聞くといつも「私ってそんなに不幸な存在なんだろうか」と

重い気分になります。

 

確かに、親御さんからすれば、自分の子どもに発達障害があると言われて

そう感じるのも無理のないことです。

それはきっと、「発達障害」という言葉がまるで発達しないかのように

聴こえるからなのかもしれません。

でも実際は、少しずつでも、時間はかかっても、発達はするし、

今ではそのための情報もたくさん出てきています。

それを考えると、「お宅のお子さんは非定型発達の可能性があります」

と言った方が正確なのではないかという気がします。

 

「非定型発達」であれば、発達するけれども、その仕方は典型的ではないので

工夫が必要だし、ひとりひとり異なるよ、ということです。

非定型」なのだから、「非定型発達」というモデルがあるわけではなく、

その中でも各自大きく異なるということです。

そう言われれば、お母さん方ももう少し悲観的にならず、

でも定型発達よりは手がかかるという覚悟もできるのではないでしょうか。

 

発達障害」っていうとなんだか劣位的で自分の存在に後ろめたさを感じますが

(自分自身は「障害」を劣位なものだとは思わないけれど

周りからはそう捉えられるので)、

非定型発達」って、悪くないではないですか。

これなら私も、「『非定型』で育ったけど、ちゃんと生きてるよ」

って堂々と言えそうです。

別に、「可哀相なもの」ではないのですから。