それでも雨が降るときは

ホリスティックに発達障害とつきあう

恵まれていないという恩寵

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私には、自分にないものばかりを数えあげてしまう癖がありました。

自分にはこれがない、あれがない、あんなところが欠けている、

誰々さんのようにはできない、なんて。

 

たぶん、発達障害のある人間であれば、多かれ少なかれ皆そうでしょう。

自分の至らなさを個性と肯定できるのであれば、

あるいは、それを個性と周りが受け止めてくれる環境にあれば、

自分に発達障害があることに気づきもせず、

「そんなの、個性でしょ~」と言っていられるのだと思います。

 

私が発達障害の診断を受けたのは34歳のときですが、

それまでも、子どものころから家族に理解されなかったことや

自分のやりたいことを応援してもらえなかったことで、

理解ある家庭に生まれた人を羨ましいと思っていました。

 

発達障害なんて概念がない時代に生まれ育ったので、

今のように早くに診断がついて支援を受けられる状況を羨んだこともありました。

 

でも、この頃、恵まれていないと思っていたことは

実は恵まれていたことだったのかもしれないと思うようになったのです。

 

家族の理解がなかったからこそ、家族から文句を言われずに

やりたいことをやるために、意地になって努力してきたし、

帰る家がないから、ホームレスにならないように死に物狂いで働いてきました。

その結果、根性はついたし(30を過ぎるまでは本当に根性がなかったからね)、

支援がなくても自活できている。

 

そのためには、身体の弱さをなんとかしなくちゃならなかったので、

若いときから変に健康オタクでいろんなことを試してきたし、

今でも傍から見たらストイックに(といっても今はだいぶゆるいけど)

糖質制限をやったりしています。

でも、そのおかげで同世代の中では気力・体力ともあるほうなんじゃ

ないかと思うし(不摂生したら、中の下になるけれども)、

少なくとも、20代の頃の自分よりも気力・体力はうんと上だと言えます。

 

現在の仕事に落ち着くまで、さまざまな職種で数多くの職場を転々としました。

転職が多かったというと、情けないように聞こえるかもしれませんが、

見方を変えれば、さまざまな職場を見れたということです。

応用の効かない発達障害者はデータ量が命ですから、

いろんな職場を経験して、広く世の中を見られたことはよかったと思っています。

仮に、ひとつの職場に就職して上手くずっと続けられたとして、

あるとき突然、離職せざるを得ないような状況になったら、

他の職場をまったく経験したことがないのだから、

世間知らずすぎて、どうしたらよいのかまったくわからなかったでしょう。

 

そもそも、家族やパートナーに恵まれて働かなくてもいいような環境にあったら、

基本的に怠け者の私はぐうたらな生活を送って、

栄養のないものばかり食べまくって

栄養不足・糖質過剰で精神的に病んで

不平ばかりいいながら過ごしていただろうと思います。

20代の頃は実際、できるだけ働きたくないと思っていたしね。

 

40も半ばを過ぎたこの歳になって周りを見渡してみると、

恵まれていることが果たして必ずしもいいことではないとよくわかります。

 

物わかりのいい家族恵まれたばかりに、あるいは、

少なくとも金銭的に不自由のない家庭に育ったばかりに

中高年になってもニート生活から抜け出せない人もいます。

 

私は以前、かなりの自由人が周りにたくさんいて、

働かずに好きなことだけをしている彼らを羨ましく思っていましたが、

30代で突然自死してしまった人も数人いました。

環境に恵まれて上手くやってきたけれど、

自活するスキルがないために、突然将来が不安になったのかもしれません。

理由は本人でないと本当にはわかりませんけどね。

私はこの歳になって、将来に不安がないかといえば嘘になるけど、

今まで何とかやってこれたので、健康でさえあれば

何とかやっていけるだろうという自信はあります。

 

それに、発達障害があって厄介だと思うこともあるけれど、

それじゃあ定型発達者のようになりたいかというと、

そうとも言い切れないのです。

人間関係のゴタゴタだとか、絶えず人の目を気にしているだとか、面倒だなと思うし。

まあ、そういう仕様で生まれてきたら、

それもまた楽しいと思うものなのかもしれないけれど。

でも、人間関係も少なければ、それはそれで悩みも少なくてよいものです。

 

要は、ものは考えようなわけで、恵まれていないと自分が思っていることも、

傍から見たら羨ましく思われているかもしれないのだし。

恵まれていないことを恩寵と思えるかどうかは

恵まれていなさをどう活かして人生を歩んでいくかにかかっている

とも言えるのかもしれません。